倉敷駅周辺のまちづくり方針が大きく変えられたのが倉敷市第4次総合計画からです。1990年3月議会に提出された第4次総合計画基本構想案に対して、日本共産党は「これまでの総合計画にあった“福祉都市”の言葉が消され“拠点都市”などに置き変えられ、福祉を欠く構想だ」と批判し、また、合併以来「各地区の均衡ある発展」と総合計画に書かれていたのが削除され「倉敷駅周辺を40万都市の“顔”として高次都市機能の集積を図る」としたのは問題だと指摘し、賛成しませんでした。
この総合計画は(株)三菱総研が市からの委託でつくった「倉敷市長期ビジョン策定調査報告書」が元になっています。さらに、その元は国の第4次全国総合計画(四全総)にあります。四全総は、3次にわたる総合計画について、第1次「新産業都市づくり」も、第2次「大規模プロジェクト推進」も、第3次「定住構想」も、大都市への人口集中と過密、過疎問題を引き起こし、「国土の均衡ある発展」(全国総合計画の目的)に至っていない、と総括し、第4次で「多極分散型国土」を目指し「首都移転」や「高次都市機能を全国展開」する、としました。その拠点として地方中核都市が位置づけられ、「拠点都市」が全国の流行言葉になりました。しかし、それも東京一極集中、過疎問題をさらに拡げただけに終わり、その後全国総合計画は廃止されました。こうした自民党型土建国家づくりは、巨額の財政赤字を生み、国民の暮らし・福祉を圧迫するようになった、と言えるのではないでしょうか。
倉敷市総合計画でも、「拠点都市」として「40万都市“顔”づくり」が唱えられ、1991年には、岡山市民から「ノー」を突きつけられたレジャーランド「チボリ」を“顔”とするようになったのです。伊東香織市長は、チボリ跡地にクラボウがイトーヨーカ堂の大型商業施設を誘致することを「倉敷駅前の“顔”ができる」と賞賛し、鉄道高架など大型事業推進の“弾み”にしようとしていますが、自民党型土建国家のなれの果てにしがみついているように思えてなりません。地方政治を変えて行きましょう。
倉敷は伝統的建造物群とその中に美術館・博物館をもつ特色ある町として高い評価を受けています。水島、児島、玉島、真備・船穂とそれぞれ特色ある歴史と産業を培ってきました。合併により市民交流が広がり、それぞれが新たな歴史と産業をつくることこそ新倉敷市発展の姿です。安心と希望に満ちた市民一人一人の“顔”以外、政治に求めるものはないのではないでしょうか。
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