「瀬戸内のミステリー 沈む島、消えた町」(1984年山陽新聞社刊)では、高潮が福田新田を襲い500人を超える死者を出し(福田千人塚)、さらに鶴新田、玉島乙島・勇崎・黒崎も被害を受けた1884年8月25日の台風災害を、各種記録から再現しています(「福田新田の悲劇」編)。04年台風がこの時と全く同じコースを辿って、大きな被害を与えました。
「狂乱の高梁川」編では、1893年10月14日暴風雨で増水した高梁川とその支流の氾濫で、真備町川辺で死者80人、総社市下原で67人、船穂町又串で7人、中洲地区一円が水没するという惨憺たる状況が描かれています。
その後、上流の砂鉄採掘廃止で土砂流出が減少し河床が低下したことと、1907~1925年高梁川大改修が行われたことにより、堤防決壊が無くなった。しかし、そのために真備町で内水被害が増大した、と記されています。
この本では、福山市の「草戸千軒」のように、瀬戸内各地で「OO千軒」と称される、消えた町を調査し、地震、津波など自然災害を追跡しています。私にとっても、血湧き、胸躍るテーマです。
もう一つが「『倉敷市』を守った市長」(2007年10月25日 手帖社刊)です。1962年三木行治知事による県南33市町村合併の「岡山百万都市構想」に対して、高橋勇雄倉敷市長が反対し、「倉敷市」の名前を残したことを高く評価し、そのドラマチックな経過を再現しています。
「県議会の広域都市建設委員長として『旗振り役』をし、『倉敷』の市名を消す側だった人(大山茂樹元市長)が銅像になって、『消え残った市』の玄関に立っているとはどういうことだろう」「抜け落ちた歴史の部分に、倉敷市の苦悩が秘められ、地方自治や民主主義の重大な出来事が隠されている」として、「当時を生きたジャーナリストとして」証言をしたものです。
大山元市長は、教育行政に力を入れ「よい子いっぱい基金」で評価されていますが、大型事業では、地元大高を副都心にする「大高区画整理事業」が、住民の反対で挫折しました。私は、この住民運動で、政治に係わるようになったのです。
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