07年10~12月の日本共産党中央委主催「科学的社会主義研究講座」での不破哲三社研所長の講義をもとに発刊されました。「はじめに」で著者は、「革命論でのマルクス、エンゲルス研究はおくれた分野になっていた」と振り返り、1960年前後に日本共産党が綱領路線を確立した頃から「マルクス、エンゲルスが展開した理論そのものを直接、系統的に研究するとともに、レーニンの解釈や理論だてもあらためてたどりなおし」「さまざまな問題で研究してきた」と、革命論研究の経緯を述べています。
第1講「『共産党宣言』と1848年の革命」、2講「48年革命後のヨーロッパ」及び3講「インターナショナル」(上)が上巻、3講「インターナショナル」(下)、4講「多数者革命」及び5講「過渡期論と革命の世界的展望」が下巻となっています。まだ、上巻しか出版されていませんが、読み出したらやめられない、心躍る叙述が展開されています。
1789年フランス大革命とナポレオン帝政及びその覇権主義敗北後のヨーロッパから話が始まり、1848年フランス2月革命勃発に至るヨーロッパ各国情勢が叙述されます。封建制、専制主義を打破する運動に参加したマルクスとエンゲルスが、革命的民主主義から共産主義に移行し、「共産党宣言」をつくりあげる過程が生き生きと描かれています。
「宣言」は、共産主義革命の必然性を明らかにし、生産手段を社会に手に移すこと、プロレタリアートによる政権の獲得という問題を前面に押し出し、民主主義運動の諸党との提携および協調につとめる態度を打ち出しました。そして、ドイツ革命の戦略方針を具体化しました。しかし、ドイツ革命は終息し、ヨーロッパを覆った革命が後退と沈滞に向かいました。このことについては、エンゲルスが死の少し前に書いた「フランスにおける階級闘争」序文を引用しています。エンゲルスは「われわれの考えがフランスの歴史的経験にとらわれ」、「ブルジョア革命はプロレタリア革命の序曲」(革命は急速に社会主義革命に転化する可能性がある)とする「われわれの考えを誤りとした」「歴史は、経済発達の水準が、当時まだとうてい資本主義的生産を廃止するほどに成熟していなかったことを明白にした」と、総括と反省の一文を紹介しています。
第2講では、1850~60年ヨーロッパ各国で産業革命が進み、70年代ドイツ、アメリカの急成長で、各国がイギリスと肩を並べて経済発展を争う時代を迎え、革命の嵐の後各国で反動体制がしかれたことが叙述されます。しかし、どの反動体制も、社会発展の法則には逆らえず、資本主義の新たな発展に道を開く仕事をやらざるを得ない、として、フランスのボナパルト帝政の実態を告発したマルクス、エンゲルスの活動を紹介。また、ドイツ、プロイセンの君主制勢力とブルジョアジーとの紛争に際して、エンゲルスが示した労働者党の戦略方針に反した、全ドイツ労働者協会長ラサールの誤りを、宰相ビスマルクとの秘密会談日誌で暴露しています。
1868年「明治維新」で日本が世界市場に組み込まれたことなどをとり上げ、世界で資本主義の新たな発展が生み出されることについて、マルクスが「新しい社会を準備する重要な土台の一つ」と位置づけたことを、「マルクスが世界的視野で革命の問題を捉えようとしていることに、新たな感銘を受けた」と著者は述べています。現代の革命論で、日本共産党が「世界の構造変化」論を打ち出しましたが、その理論的中心を担った著者の感慨でもあったのではないでしょうか。
2講では、マルクス、エンゲルスの戦争論が登場します。その最後に「南北戦争の性格を究明する」が出てきます。1860年奴隷制地域の拡大に反対する綱領を掲げたリンカーンが大統領に当選すると、南部諸州が合衆国から脱退し、61年南北戦争が始まりました。マルクスが「南部連合の戦争はけっして防衛のための戦争ではなく、むしろ、侵略戦争、奴隷制の拡大と永続化のための侵略戦争」と喝破したこと、62年リンカーンの「奴隷解放宣言」から戦局が大きく変わり、強力だった南部の軍隊を壊滅させ、65年に戦争は北部の勝利で終結しました。この戦争を、マルクス、エンゲルスが、一国の内戦としてだけとらえないで、革命と反革命との闘争の重要なモデルの一つと見ていたこと、そして以後、選挙で多数を得て成立した革命権力に武力を持って反抗することを「奴隷所有者の反抗」の名で呼ぶようになった、と紹介しています。